新宿御苑の森ガール

東京の荒波にもまれる社会人一年目。自称森ガールの日々の葛藤

ピコ太郎が私に教えてくれたこと

「PPAPという動画が流行っている」
知人にそう言われて、私はその真相を突き止めてみようと思った

その動画は、ピコ太郎という人物が、リンゴにペンを刺したり、パイナップルにペンを刺したりする動画だった。

動画を見た瞬間から私はその奥深さを見抜いていた。
しかし、一つ分からないことがあった。
なぜピコ太郎は、リンゴにペンを刺したのか
というのが、まるで分からないのだ。

なぜリンゴなのか
なぜペンなのか
そして、なぜ刺したのか

私はこのことについて2時間は考えた。
しかし、この動画に感じた奥深さは単なる錯覚だと気づかされることとなった。

この動画は、リンゴにペンを刺したり、パイナップルにペンを刺したりする。
それ以上でも、それ以下でもなく、ただそれだけの動画だったのだ。

なんだか意味ありげな動きと、一言一言の重み、そして英語であるという条件が重なって、私はその動画に深い意味があると錯覚していたのだ。

私は2時間を無駄にしたことを悔やんだ。
そして無意味な動画を配信したピコ太郎を責めた。

しかし同時に、ピコ太郎さんの凄さに気付かされた。

意味を見出す必要のないことには、意味を見出す必要はないのである。

私は今までの人生で、なぜリンゴにペンを刺すのかというレベルの疑問に対して、あまりにも多くの時間を使っていた。
例えば
「なぜ勉強しなければいけないのか」
学生時代のほとんどの時間を私はこの疑問を解決するのに使った。しかし、答えは出なかった。もし私がそのような疑問を持たずに勉強に打ち込むことができたら、どれだけの時間を勉強に回すことができただろうか。

そう、仮に意味があったとしても、意味を見出す必要のないことには、意味を見出す必要はないのである。

人の時間は有限であり、多くの出来事、やるべきことから、考えるべきことと考えないことを見極めて行動に動かしていかなければならない。
仕事だってそう、本当は考える必要のないことに膨大な時間を割いていた。
「なぜ」は最重要ではないのだ。
本当は意味のないことに、無理やり意味を見出すことに多大な時間を使っていないだろうか?

結局、その境界線を引くのは自分自身である。
考えたければ考えればいいし、考えたくなければ考えなくていい。
しかし、意味のないものだって無数に存在しているし、意味を見出すこと自体が無意味なことだってある。
そういうものの存在に私はこの動画で気づくことができた。

PPAPの動画に深い意味を錯覚したように、私の境界線は、あやふやで、非効率な生き方かもしれない。
だからこそ、経験でその精度を高めていくしかないのだ。

ピコ太郎さんありがとう。

「君の名は。」が難しすぎたので、一言言わせてもらいたい。

君の名は。」を観たけど、あの話は難しすぎはしないだろうか。

感動した人は一体どこに感動したのか、何が分かったのか教えてほしい。


まず
①なぜ2人が入れ替わるのか分からない
そして
②なぜ時間がずれているのか分からない
さらに
③なぜ隕石の落下なのか分からない
さらに
④なぜ名前を忘れるのか分からない
最後に
⑤なぜ2人が再び出会う必要があるのか分からない

君の名は。」は私には難しすぎた。はじめの設定から、理解ができないのだから。

まず①のなぜ2人が入れ替わるのかというのに疑問を持つと、その後のすべての設定が意味不明になる。

そこで、これは恋愛の話なんだ!と思ってみたりしたけど、よくよく考えたらこれは恋愛でもない。なぜなら彼らは入れ替わってるだけで、愛し合ってもいない。
では失われる日本の村の伝統や暮らしの大切さについて訴えているのではないかと思ったが、わざわざそれだけのためにこんな大掛かりな設定をするのもおかしい。

 

結局のところ、作者があれほどまでに細かい設定をして話を複雑にしてまで、何を伝えたかったのか、というのがまるで分からないのだ。


これほどまでに私を混乱させた映画は未だかつてない。

簿記3級の勉強が進まない

もう入金してしまって、11月の試験まであと1カ月だというのに、簿記の勉強が進まない。

学生時代に挫折した簿記3級に今更挑戦してみようと思ったのだけど、基本的に能力も集中力もあの時から変わっていないので、頑張らないと合格はできない。

学生の頃は無限に時間があったのに、なぜあの時私は勉強しなかったのか。

とか、後悔しても仕方がない。

私は昔から継続して勉強することが苦手だった。典型的な三日坊主だし、今もそれは変わってない。

でもだからこそ、続けられる仕組みづくりが大切なのではないか。

自分が頑張らなくても勉強を続けられる仕組みを自分で作り出す。

結局はこれが一番大切。

気合いで解決するとか、高いモチベーションを維持するとか、それは人間である以上不可能に近い。

だからそういう方法に早く見切りをつけて、やる気が無くても持続する習慣化に切り替えていかなくてはいけない。

今までやる気のないことに対して徹底的に避けてきた自分が、社会人になって学んだ最大の気づきがこれ。

ということで、合格目指して勉強の習慣化をしていきます。

今回はいける気がするぞ!

ポケモンGOはなぜヒットしたのか?

ポケモンGOをやったことのある人は、どうしてあんなにかわいいコダックが、進化するとゴルダックというなんの面影もない存在に変わってしまうのか、不思議に思った人もいるかも知れない。あの色とフォルムはどこに消えたのか、と。

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これはコダックファンの私にとっても、納得できない事実である。

 

しかし、残念なことにこれは制作者に聞いてみないと分からないということで、今回は、どうしてポケモンGOはこんなにもヒットしたのかについて私なりに分析してみた。

 

まず、今までのゲームと違って、ポケモンGOが革命的だった点として、

 

①現実世界とバーチャルの世界で相互関係があること

が挙げられる。今までのゲームは、バーチャルの世界が現実世界と空間的に全く別の次元にあり、二つの世界は空間的には切り離されていた。しかし、ポケモンGOの登場は、現実世界にポケモンを突如発生させた。バーチャルの世界と現実世界が連動し、自分が現実世界で動き回らないと、バーチャル世界でも動き回れないというなんともめんどくさい設定だった。
これは一見、自分が動かなくてもどこまでも動き回れるというバーチャル世界のメリットをかき消しているかのように思える。しかし、この制約こそが、人の好奇心を引き出し、達成欲求を高めたのではないだろうか。

 

次に

②自分と他人がゲームを通じて同じストーリーやフィールドを共有できる一体感

が挙げられる。通常のゲームであれば、ゲームの中に存在するのは、自分だけであり、オンラインゲームであれば、自分と、ゲームをしている他人である。そこにゲームをしていない人は存在しない。しかし、ポケモンGOはどうだろうか。ポケモンGOは、現実世界とバーチャル世界が連動していると先ほど書いたが、その場合、現実世界には、ゲームをしている人としていない人が、今ここに、同時に存在することになる。目の前にいるポケモンが見える人もいれば見えない人もいるのだ。

これは秘密を共有した友達のようなもので、プレイヤー同士が親近感を感じたり、プレイヤーが集まっている場所で一体感が生まれたりする。私はこの一体感こそ、ポケモンGOがここまで広がる要因になったのではないかと思う。

この一体感は、同じ「フィールド」を共有するという意味もあるが、トレーナーレベルやレアなポケモンなど、共通の話題をつくりだす「ストーリー」の共有という一体感も大きかったのではないかと思う。「みんながやっているからやってみよう」という心理は、自分も一体感を共有する仲間になるという点で、人間としての所属欲求みたいなものにつながってくるのだろう。

 

ポケモンGOは、人の行動や感情、そして今までのゲームの常識を変えたという点で、今後の人類の歴史の一部になっていくのかも知れない。

「主体性」とは何か?

この2ヶ月の頑張りは無駄だった気もするし、でも「主体性」が何かということに気づけたという結果から見れば革命的な成長だったとも思う。

入社して1ヶ月後くらいから「主体的に動く」とはどういうことなのかというのが、妙に気になり始めた。ベンチャーだから主体性を持って仕事をしなくてはならないと頭で分かってはいたし、まだ仕事ができない自分でも主体的に動くことを求められているとは思っていた。

でも、主体的に動くとは一体何なのか。何をどうすればいいのか。

この答えを明確に教えてくれる人はいなかった。

 

この世の多くの人が主体的に動くことは良いことだと思っているとしたら、主体性を持った人であふれかえっているはずだ。でも現実にはそうでないように見える。

今はずいぶん慣れてきたが、社会人に成り立ての頃は、会社という場所の異様な雰囲気と、抜け殻みたいな人たちの多さに、恐怖と不安で泣きそうになった。

そんな現実は、主体性を持ちたいと思う自分にとって、理想とはかけ離れたところにある様な気がした。

学生の時に当たり前のように持っていた主体性が、社会に出ることによってそぎ落とされていくのだとしたら、私の居場所はどこにあるのだろうかと思い悩んだりもした。

 

主体性というのは便利な言葉だ。

組織が上手くまわらないときに、「個人の主体性がないからだ」と、仕組みが悪いのではなく、個人の実力不足にしてしまうことができたり、「これからはもっと主体的に動こうと思います」というと、なんだかやる気のある意気込みを伝えた気分になったりする。

つまり、「主体性」という曖昧な言葉を使うことで、解決すべき本質的な問題から目を背けているのではないかということだ。

 

そんなことを考えながら、私は与えられた仕事を試行錯誤しながら自分で工夫し、それなりに全力で努力し、目標を達成しようとしていた。自分なりには、主体性をある程度発揮していると思い込んでいた。仕事の内容はここで詳しく伝える事はできないのだが、私に与えられたノルマはそれなりにきつかったし、それを自分で工夫しながら達成しているという充実感を少しは感じていた。

しかし、それも限界がきていた。ある程度工夫をすると、工夫の限界が来る。そして、工夫の限界が来ると、面白くなくなり、モチベーションの限界が来る。今まで達成できていた目標が達成できなくなり、そんな自分を責め、努力が足りないと自分を奮い立たせる。そんな日々が続くと、気分が落ち込み、自分はなんて無意味なことをしているんだろうとか考え始める。しかし、考えれば考えるほど自分の努力が足りないんだと、湧き出たSOSを封印してしまう。

 

そんな生活を続けていたある日、目標を達成できず、暗い気持ちで家に帰る途中、満員電車でボロボロと涙があふれてきた。そうしてようやく私は、このままではいけないと思った。この2ヶ月はとても長いような気がするけど、でも私にとっては必要な2ヶ月だった。主体性とは何かについて気づく機会を会社が与えてくれたのかも知れない。

 

私は自分の限界が来てはじめて、「自分を取り巻く環境を変えよう」と思い立ったのだ。

「自分で工夫し、行動する」主体性から、「自分が頑張れる環境を他人の協力を得ながら自分の手で創り出す」主体性へのステップアップだった。

革命的な気づきだった。

今まで主体性は、自己の中で完結できることだと思っていたから。

 

私が現時点で思う「主体性」は全部で3ステップある。

 

ステップ1:自分で工夫し、行動する(自己完結型主体性)

ステップ2:自分が最も価値を見いだせる環境を自分の手で作りあげていく(他人を巻き込み、自分の環境を変えていく主体性)

ステップ3:自分と他人がそれぞれの良さを活かしながら成長できる環境をつくる(他人と関係を築きながら組織を変えていく主体性)

 

ステップ1からステップ2への成長は、他人を巻き込むという点で大きな壁がある。

そして、ステップ2からステップ3への成長も、自分中心から、他人や組織といった視野の拡大が求められるという点で、とても大きな変化である。

 

現時点で私は、ステップ2やステップ3があるということに気づいたに過ぎないが、1年後にはステップ3の「他人と関係を築きながら組織を変えていく主体性」を発揮できるような人になりたいと思う。